1989-02-14 第114回国会 衆議院 本会議 第5号
幼少のころ、不幸にも父親に早逝されたため、君は、戦前の政界において三たび農林大臣を務め、政友会の重鎮として活躍された、伯父山崎達之輔氏のもとで養育されたのであります。 長じて、旧制佐賀高等学校に学び、九州帝国大学農学部に進まれました君は、昭和十四年に卒業されるや、直ちに農林省に入り、行政官としての第一歩を踏み出されました。
幼少のころ、不幸にも父親に早逝されたため、君は、戦前の政界において三たび農林大臣を務め、政友会の重鎮として活躍された、伯父山崎達之輔氏のもとで養育されたのであります。 長じて、旧制佐賀高等学校に学び、九州帝国大学農学部に進まれました君は、昭和十四年に卒業されるや、直ちに農林省に入り、行政官としての第一歩を踏み出されました。
十年の政治記者生活の後、保利君は、昭和九年、岡田内閣の農林大臣であった山崎達之輔氏の秘書官となられたのですが、山崎氏がさらに昭和十二年、林銑十郎内閣の農相、昭和十六年、東條内閣の農商相となられたのに伴い、三代の内閣の閣僚に仕えて政治の裏表を学ばれたこととなり、保利君がやがて大きく飛躍されるための貴重な礎となったことは明らかであります。
かねて農民運動に携わっていた私は、君の令兄であり、かつて本院議員として活躍され、三たび農林大臣の職につかれた郷土の先輩故山崎達之輔氏の知遇を得、しばしばお宅へ伺っては農業問題について教えを請うてまいりました。これが機縁となって君とも親交を重ねることとなり、自来今日まで、何かと御懇意に願っておりました。
私はこの前の昭和九年当時の冷害を親しく取扱つたものでありまして、その当時は山崎達之輔氏が大臣になつておつた。大阪方面に災害があつて、当時閣僚が二人もすぐに出かけておつた。そのあとに東北が冷害を受けたとき、だれも閣僚で東北を見る者がなかつた。すこぶる残念に思つて、私がすぐ内閣に来て訴えたときに、鉄道大臣の内田信也君がただちにかわつて東北を見られて、あの当時の施設ができた。
しかも大臣は前回の委員会において、昭和九年に時の農林大臣山崎達之輔氏が災害地をくまなく踏査して、そうして適切なる人情味のある施策の手を延ばしたということを敷衍しておるわけですが、きよう大臣にお目にかかつて、大臣が東北のあの深刻な冷害の様を見てどれだけの大きな感銘を受けて、現在の施策の上にそれを集現しようという熱意がどこにあるか、まつたく判断に苦しむのであります。
御決定になつたようでありますが、あの場所は多分昭和八年だと記憶いたしておりますが、北見に国有種馬場の設置をしたいというので相当な苦難な途を辿つて、丁度山崎達之輔氏が農林大臣の当時に、我々も何十日も上京いたします。そうしてそのあげくできた種馬場なのでありました。ところが御承知のように種馬場の必要がなくなりまして、あの場所には農家が十七戸おつたと記憶いたしております。